金曜の夕刻、東京駅の京葉線ホームには、週末へ逃避する人々の疲労が、湿った熱気となって漂っていた。午後6時過ぎ。地下深くのホームへ降りていくエスカレーターの列に、小太りの中年男が四人並んでいた。全員五十代半ば。社会的にはそれなりの立場を持ち、会社では部下に説教を垂れる側の人間だが、その実態は、週末になると学生の合宿のようにはしゃぐ、そんな熱いオッサンたち(笑)。 「いやぁ、しかし部下に頭下げて午後休暇をもろうた時の解放感いうたらないのう」一人が言うと、他の三人が笑った。 「その代わり月曜が怖いわな」「アホか月曜のこと考えて金曜を生きとったら人生損じゃ」 そんな他愛ない会話をしながら、一行は特急わかしお十三号へ乗り込んだ。目的地は千葉・御宿。二泊三日のゴルフ遠征である。ボックス席に陣取るや否や、缶ビールが取り出された。 「ほい、お疲れさんじゃ!」 プシュッという小気味良い音が連鎖する。車窓の外では、東京の灰色のビル群がゆっくりと後退していった。 その時だった。根っからの鯉好きの一人が、スマホを見たまま眉をひそめた。 「おいおいおい」「どしたんなら」「いや、なんか変なんじゃわ」 眼鏡を押し上げながら画面を睨んだ。 「今日の竜戦、栗林先発の筈なんじゃけどの」「おお!防御率ゼロ点台よ。安心して見れる唯一の試合じゃ」「それが・・・1回裏で4点入っとる」「は?」 空気が止まった。 誰もが一瞬、見間違いだと思った。栗林が打たれるなど、想像の外にある出来事だったからだ。 「なんか表示ミスじゃないんか」「いや……待てよ」 声が低くなる。 「おいおい栗林が一回投げ切ってないで」「はぁ?」 四人の顔から、さっきまでの酔いがすっと引いていく。スマホが次々と取り出された。 列車はすでに新木場を過ぎ、暗くなり始めた東京湾沿いを走っていた。しかしボックス席の四人は、窓の景色など誰一人見ていなかった。 「なんじゃこれ」「交代? 一回途中?」「自責点が4?」「いや待て待て、そんなことあるか?」 画面には断片的な情報しか出てこない。意味を成さない文字列が並ぶ。 〈右脚に違和感か〉〈緊急降板〉〈トレーナー付き添い〉 そのどれもが、不吉な単語だった。 缶ビールを置いた。「なんか・・・嫌な感じじゃのう」 誰も返事をしなかった。 列車はそのまま房総半島を南下し続けたが、車内の空気だけが奇妙に淀んでいた。本来なら、この時間はゴルフ談義に花が咲くはずだった。明日のコース攻略、最近買ったドライバー、飛距離が落ちただの、腰が痛いだの。しかし4人とも無意識にスマホを更新し続けている。 沈黙の多いボックス席だった。 御宿駅に着いた頃には、皆どこか疲れた顔になっていた。「まぁとりあえずメシじゃメシ!」誰かが無理に明るく言った。 ホテルに荷物を置くと一行は予約していた居酒屋兼カラオケパブへ向かった。港町特有の潮の匂いが、夜風に混じっている。 店内は昭和の匂いがした。色褪せた演歌歌手のポスター。妙に明るいネオン。カウンター奥の水槽では伊勢海老が動く。 「いらっしゃぁい!」 ママの甲高い声に迎えられ、一行は半個室へ通された。そこからは、半ば強引に宴会モードへ移行した。刺身が運ばれ、焼酎ボトルが開く。 誰かが歌い始める。 「こういう時は飲むしかない!」 まるで嫌な現実を押し流すような騒ぎ方だった。だが、スマホだけは誰も手放さない。 その時、例の鯉好きが突然声を上げた。 「おおっ!」「なんじゃ!」「名原!名原が打った!」「マジか!」空気が一気に明るくなる。 「しかもタイムリー!」「やるのぉ!」 店の片隅で、中年男4人が歓声を上げる。事情を知らない他の客から見れば、かなり異様な光景だっただろう。 だが彼らには重要だった。希望だった。崩れかけた夜に差し込んだ、小さな光だった。 「流れ来とるぞ!」「追い上げじゃ!」「若いのが出てくるんはええことよ!」 勢いよくハイボールを飲み干した。その瞬間だった。 表情が再び凍った。 「うわぁぁ・・・」「どうしたんなら」「栗林が・・右内転筋違和感じゃと」誰も動かなかった。 「マジかよ」「登録抹消レベルかの」「いや、今シーズン終わったかもしれん」 その一言が、妙に現実味を持って場に落ちた。 今季、どれだけ彼に救われてきたか。どれだけギリギリの試合を締めてきたか。代わりがいない、という事実を、誰もが知っていた。さっきまでの賑やかさが、嘘みたいに消えた。 カラオケのモニターでは、場違いに陽気な映像が流れている。だが4人とも、もう試合経過を見る気力を失っていた。 スマホを伏せた。「もうええわ」誰も異論を言わなかった。 沈黙を埋めるようにママが気を遣って言う。「お兄さんたち、なんか歌いなさいよぉ」 苦笑が広がる。 「歌うしかないかの」 しばらく考えた後、彼はリモコンを操作した。イントロが流れた瞬間、全員が顔を上げた。 西城秀樹の『ブルースカイブルー』だった。 「反則じゃろ」誰かが笑いながら言った。 だが歌は始まった。 五十を過ぎた男たちのくたびれた声が、妙に店内へ沁みていく。若い頃にはわからなかった歌詞が、今は胸に刺さる。人生には、どうにもならない夜がある。期待が崩れる瞬間もある。けれど、それでも次の日は来る。 歌い終わる頃に誰もが静かな顔になっていた。店を出ると、御宿の夜空には星が出ていた。海の音が遠くから聞こえる。ホテルへの帰り道、4人は喋らなかった。 例の鯉好きが最後にぽつりと言った。 「森下に託すしかないのう」 誰も否定しなかった。 エースはこういう時に人の心を支える。絶望しかけた空気を、一球で変える。そんな奇跡を、人は何度でも期待してしまう。 わざと明るく言った。 「まぁええわ。せめてゴルフだけは頑張ろうや」「じゃの」「前向いていかんとな」「鯉諸君も、わしらも」 笑いは起きなかったが少しだけ口元が緩む。 部屋へ戻りベッドに腰掛けスマホを開きかけた。試合結果を見ようとして――やめた。 そっと画面を閉じる。 暗くなった液晶に疲れた自分の顔が映っていた。窓の外では、潮騒だけが規則正しく響いている。彼は天井を見上げ、小さく呟いた。 「頼むぜ、森下よ」 その声は、静かな御宿の夜に溶けていった。 がんばろう鯉諸君。がんばろう広島。 ↓クリックお願いします。 にほんブログ村
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